本のある毎日

徒然なるままに、書物に向かいて…

京極夏彦『姑獲鳥の夏』【感想】

 

私の見ている現実はどうしようもなく不安定だ。眼球はガラス玉じゃないし、ほかの感覚だって「そのまま」知覚している訳じゃない。私のいう現実は、感覚器官から取り込まれた情報を脳が取捨選択をして、意識上に再構成したものだ。

それはちょっと考えればすぐに気づけること。でもそれに気づいた瞬間、現実は砂上の楼閣も同然になる。確固たるものと「信じていた世界」は「信じていたい世界」へとなりはてる。私はそのとき、現実のあまりの脆弱さにただ溜息をつくしかない。

姑獲鳥の夏を読み終わった瞬間がまさにそうだった。

戦後の復興進む昭和27年の梅雨も明けようかという夏。小説家の関口巽は、雑司が谷産婦人科医院・久遠寺医院に流れる奇妙な噂について調べていた。院長の娘が、二十箇月もの間赤子を妊娠したままで、その夫は密室から煙のように失踪して行方不明だという。関口は、旧友で古本屋の「京極堂」に相談を持ち掛け、さらには探偵の榎木津、刑事の木場らも巻き込むが、そこには予想をはるかに超える真実が待ち受けていた。

陰惨な噂、久遠寺家の呪い、あまりにも信じがたい展開を前に思わず神秘や怪異の存在を肯定しそうになる、肯定したくなるけれど、京極堂は云う。「この世に不思議なことなど何も無いのだよ」と―。

そして物語は衝撃のラストまでノンストップで一気に進む。読了後には、遣る瀬無さと世界への不信感が残るが、しかし同時に夏の青空のような爽やかさも待っている。

ジャンルとしては民俗学を題材にした本格ミステリだ。でも読んでいる最中の現実と幻想を行き来するようなあの感覚は、普通のミステリでは絶対に味わうことが出来ない。

全編を通して語られる民俗学、宗教学、物理学や認識論などに関する豊富な話題には圧倒される。しかも冒頭から100ページくらい、京極堂と関口が認識と妖怪・姑獲鳥に関する問答を繰り広げて戸惑うのだが、これが猛烈に面白い。そしてこれがただ知識をひけらかしているのではなく、ちゃんと物語を構成する重要な要素となっているのだからすごい。京極夏彦さんの構成力、知識量、難解な話題でも読者が理解できるように書く筆力には感嘆するばかりだ。

また個性的なキャラクターたちも本書の魅力だ。例えば京極堂は、古本屋でありながら家業は神主で、副業で憑き物落としをしているというカオス振り。いつも和装に身を包み、仏頂面で本を読んでいる。普通に生きていたのではまず知り得ないようなことを豊富に知っていて、恐ろしく弁が立つ。(本当は一人一人紹介したいが、未読の方の楽しみを奪ってはいけないので割愛泣)それぞれの人物が作品世界を構成するうえで不可欠な存在だし、読み終わるころにはきっと自分のお気に入りのキャラクターが見つけているはずだ。

京極さんといえば「レンガ本」「鈍器」など、分厚い本の代名詞のように言われているが「姑獲鳥の夏」は比較的薄くかつ、そのボリュームを感じさせないくらい面白いのでとても読みやすい。しかも本書はデビュー作にして「百鬼夜行シリーズ」の第一作目と、京極作品を読んだことがない方にもピッタリの一冊。

本書をきっかけに、ぜひ唯一無二の京極ワールドを楽しんでほしい。